三鷹の文化財を知る
団子まきとは?
毎年10月8日、野崎の氏神である野崎八幡社の境内に祀られている「薬師殿」の祭祀のひとつとして行われる、団子を撒く行事です。
早朝から地区の役員や女性たちによって約7千個の団子がつくられ、夜9時ちょうどに八幡社社務所からいっせいに団子が撒かれ、神社に集まった人々はそれを拾い集めます。
この団子を食べると主に眼病に効果があると伝承されています。この行事は、いつから行われているかは明確に確認できませんが、第二次大戦中も絶えることなく行われてきたと伝承されています。
関東や東日本では、「餅」まきの風習が広く行われていますが、「団子」まきの風習自体が珍しい存在です。薬師如来への信仰は、少なくとも江戸時代後期に遡ることが古文書から確認することができます。
この行事は、地域に残る貴重な無形文化財として、平成 25 年度に三鷹市無形民俗文化財に登録されました。
野崎八幡社薬師殿と薬師如来の歴史
薬師堂で祀られている薬師如来は、野崎に滞在して布教に当たっていた愛知県新城市の鳳来寺(真言宗・本尊薬師如来)の尼僧・梅風尼(梅鳳尼)によってもたらされたと伝えられています。
文久3年(1863)年に薬師堂の屋根を修理した記録があることから、少なくとも150年前から祀られていることが確認できます。しかし当初から、薬師を祀っていた場所の特定は定かではありません。薬師は八幡社境内に祀られていたと伝承されていますが、江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』(文政11年1828年編纂)の野崎村の稿には、薬師、薬師堂、薬師殿の記載はありません。ただし、八幡社境内の墓地に「寮」の記載があり、共同墓地の「総佛」として、ここに六部の梅鳳尼が薬師を祀っていたとの解釈もあります(森岡清美1964)。
明治時代の神仏分離令により、薬師は神社当番頭の持ち回りとなりますが、関東大震災以後新築された社務所内に祀られるようになり、さらに昭和61年(1986)に新築された薬師堂に祀られています。平成21年(2009)、道路拡張に伴う八幡社の境内整備により、本殿西側に移転して現在の位置となりました。
文久三亥年
薬師寺様家根上家替帳
九月 野崎村
三鷹市野崎吉野文書より
行事の一日
団子まきの行事は、毎年10月8日と定められています。この日は朝から野崎町会と崇敬会役員が社務所に集合し、上新粉で7,000個ほどの団子を作ります。
作った団子は薬師殿に奉納した後、午後9時に社務所から一斉に撒かれ、これが行事のハイライトです。
野崎内外から集まった多くの人々が、団子を争うように拾い、家に持帰ります。落ちて泥のついた団子は、特に眼病に病に効くとされています。
かつては、各家から米を集め、野崎にあった水車で挽き、団子の材料にしていましたが、最近は上新粉を使うようになっています。
団子まきの工程
- 1 上新粉に湯を注ぎ、団子の元になる大きな塊をつくる
- 2 この塊を細かく切って丸め団子にする
- 3 団子を蒸篭にいれてせいろで蒸す
- 4 粉をまぶす
- 5 飯台に入れ薬師さまにお供えする
- 6 お供えが済んだら社務所に並べする
- 7 一部は各世帯に配布するため、7個ずつ、袋につめる
- 8 夜9時を待つ
- 9 団子をまく
行事の特徴
団子をまく行事は、主に北陸地方の寺の初午や花祭の行事として、数例報告されていますが、「餅まき」に比べても行事自体が大変珍しいばかりでなく、本行事は、薬師の祭祀の一環として行われていることに大きな特徴があります。
しかも戦時中の食糧難に際にも中断することなく、毎年継続して行われてきたと伝承されていることから、野崎の人々の強い信仰心を見ることができます。
団子まきは、かつて畑作農村であり、かつ近世の新田村落として成立した野崎の開発、および神社祭祀、水利などのその後の村落の展開に深くかかわっており、団子まきの背景や歴史によって野崎の歴史を明らかにすることができるとても珍しい行事です。
「野崎八幡薬師殿団子まき」報告書を一部引用加筆